[Essay] 自動化する…ということ

大昔から、様々なモンが機械化され自動化されてきたのが人類の歴史なのだろうと思うのだけど、時々、その評価についてモヤモヤと引っかかるコトがある。

結構引っかかる奴の一つは、今の水流式の洗濯機を例に出して「洗濯板で洗濯するコトに捉われていたら、今の洗濯機はできなかった」というもの。確かに洗濯板での洗濯をベースにし、あの上でゴシゴシすることを念頭において機械化しようとしても、かなり大変なコトになるのは想像に難くない。

そういう意味で、機械化/自動化の第一段階として今の水流式洗濯機が発明されたのは、非常に素晴らしいコトだと思う。ところが…だ、先のようなコトを言う人の多くはどういうワケか、「だからこれが正常進化なのであって、洗濯の手法としてはこれが最良なのだ」と言って憚らない。直接的ではなくても、それに近しいコトをよく聞く。

例えば「だから洗濯という行為として、洗濯板ではなく水流式洗濯機のやり方を人間が受け入れなければならない/受け入れてきた」といった意見やな。けどこれ、恐ろしくボンクラな意見だと思うのだよ。

洗濯とは衣類を綺麗にする行為に他ならないワケだけど、その方法に定義があるワケではない。それこそ水流式洗濯機発明以前は世界中で様々な洗濯方法があったと聞く。それはそれぞれの地域で着ている衣類に合った方法として、長い時間掛けて見つけ出された方法だったハズだ。洗濯板もその一つやね。

確かに今の水流式洗濯機は、そういうのを一掃して家事労働の手間を省き、一定のメリットを見せているからこれだけ普及しているワケだけど、ではそれが完璧に自動化できているのか?というと、実は案外そうでもない。汚れの程度によっては結局手洗いをせねばならなかったり、逆に水流に弱いものは一定の保護(ネットに入れるとかね)をしないと砕けてしまう。それなりに色々と下ごしらえをやってやらないと、実はチャンと洗濯できるとは限らないんだよね。

というコトは、実はまだまだ改善されなければならないコトがたくさんあるハズなんだよ。そしてその結論は、水流式になるとは限らないハズなんだな。つまり、先のようなコトを言ってる人は、洗濯板に捉われるコトをdisっている癖に、自分は水流式に捉われてしまっているワケだ。これがモヤモヤする原因だろうね。

ましてや、本来の洗濯は最終的には洗濯物干し/取り込み/折りたたみ/収納が待っている。もっと言うと、家庭によっては脱ぎ捨てられた洗濯物の収集まであるワケだ。そこまで含めて最適化した場合、水流式が本当にイイのかどうかは、まだ誰にも分からないんぢゃないかな。昔、ある漫画には使い捨ての衣服という概念があって、着終わったらそのままダストシュートに捨てるという描写があったんだが、これなんか洗濯そのものを無くしているという点については(実現可能性はさておき)全く別の視点でモノを考えていると思う。作中では、この方が衛生的だという指摘もなされていたと思う。

こう考えていくと、もしかしたら次世代の洗濯はメイドロボ(念のためだが、美少女とは限らないぞ)が洗濯板で洗濯するのがイイのかもしれないワケで、上記のような「現時点での最適化」に捉われないようにしたいものだと思う。

Zak について

基本的にヲタクです。いや、別に萌えとかいうのではなく、ハマるとトコトン進めようとする癖があるので、自制が必要だという…。
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