[Essay] 日本国内で、英語「で」必須科目の授業するコトのバカバカしさ

チョイとマレーシアまで出張する機会があって、色々と先方ともミーティングがあったので、それを鑑みて少し書いてみる。なお、ヲイラの英語のレベルはブッチャケ最低ランクと言っていい。かろうじて意思疎通がなんとかなるレベルやな。なので、一応一人で出かけて行って一人で帰ってくるぐらいはどうにかなるって感じ。

先に書いておくが、本エントリーでは「英語の勉強は不要だ」とは一言も言ってない。むしろそれは推奨されるものであるし、ヲイラ程度ではなくもっと流暢に喋れればそれに越したコトはないのは間違いない。ましてや技術屋さんを目指そうという人が全く対話できないのは論外で、今時そんなんでは技術屋するのは不可能と言ってもいい。読み書きに加え、実際に直接会話できる必要があるのは言うまでもない。

さて…

今回初めて訪問したマレーシアはいくつかの民族からなる国で、公用語は一応マレーシア語(マレー語)ってコトになっているが、かつては英語が公用語であり、今も準公用語扱いらしい。なお、マレーシア語の表現ってちょっと面白くて、レストランが「RESTORAN」だったりする。教育も言葉が入り混じっているらしく、先方のスタッフもマレーシア語と英語を使い分けていた。

今回の訪問先では、マレー系の他に中国系のスタッフもいたので、最大4言語が飛び交うコトになるのだが、今回はミーティングでは中国系の方は一人だけだったので、3言語で済んだ(^_^;)という感じ。でも、昼食に出かけた先の中華系食堂では中国語でオーダーされてたな。なので、この方は英語、マレー語、中国語のトライリンガルってコトになる。すごいね。

ミーティング中は、全員に言う、もしくは異なる民族に言う場合は英語、内輪の会話はそれぞれの言語って感じやな。英語最低ランクなヲイラとしては、もう少し言葉を磨かないとなーと痛感する。時々、しょーもない単語が出てこなかったりするんだよなー。

なので、学生諸氏におかれては、英語の勉強に邁進されたしって正直に思う。最初は英語のマニュアルを読むところからで構わないと思うが、ネット経由での先方への質問を英語で書くとか、実際に直接会って英語で会話する経験を積むのはとても重要なコトだろうと思っている。いずれは同じようにこんな出張をこなすコトになるだろうし、そうなれば英会話は必須で、できれば流暢になるに越したことはない。向こうの連中に冗談の一つでも言えれば話の通りも良くなるしな。

しかし…だ。

そのニーズに対する最近の日本の教育の仕方って、以前よりも悪い方向へ進んでいるとしか思えないんだ。その最たる奴が必須科目を「英語授業する」という奴。「英語の時間」に英語を勉強するのではなく、数学とか物理とか、他の必須科目を英語でやり取りしながら勉強するというものやな。

少し考えれば解りそうなモンやと思うが、この方法は「二兎を追う者は一兎をも得ず」の諺どおり、ロクな結果にはならないコトが容易に予想されると思う。そりゃ、デキる奴はいつの世にもいて、両方取れるやつもいるんだろう。だけどね。日本語でならキッチリと勉強できる奴が、その授業を英語で行うが故に「学習機会を奪われている」というのはどういうコトだろうか。これは教育上の差別と言っても過言ではないと思う。

で、こんなコトを言うと必ず「他所の国では英語でやっているトコもある」という答えが返ってくるんだが、そういうのをナントカの一つ覚えと言う。まず、日本では英語は公用語でもなんでもないし、普段生活する上で必要な言語でもない。さらには後述するが日本には日本語で蓄積された資料が山のようにある。英語で授業を行う必要性は、かろうじて英語を学ぶという意味合い以外には全くない。しかも、その意味合いすらも上記のように学習機会を奪うコトから、むしろ害悪だと言っていいと思う。

本当に大切なコトは、「語るべき内容」をきちんと持つコトであって、言語はそれに比べれば「単なる道具」に過ぎないという事実だと思う。これがわからない連中が、表面的な「流暢な英語はカッコイイ」的な価値観の元に、英語の能力ばかりを要求し、本来授業で教えなければならない内容を無視した形…それが「英語で授業」の本質だと思っている。

実際の先の出張のような現場では、実は先方もかなり鈍った英語を使う。お互いに鈍ってはいるけれど、何度か歩み寄って共通認識を取るための手段として、英語は間違いなく役には立っている。だけど、そこにはいわゆる「流暢な英語」は必須ではないんだよね。だからこそ、ヲイラみたいな最低ランクでもなんとかなるんだわさ。なぜなら、仕事上語らねばならない内容を持っているからなのね。

そして、先にも少し書いたが日本ほど自国語での学習資料が揃っている国も珍しいと聞く。これは明治以降…いや、それ以前からたとえ細々ながらも多くの文献を翻訳し、積み上げてこられた先人の努力の上にある貴重なものなんだろう。技術書一つとっても、日本語で書かれた本は多数ある。これらで勉強し能力を身につけてきた人が、他の言語で学んだ人と差があるとは思えない。それだけの蓄積があるというコトだろう。

英語で授業を行うというコトは、こういった先人の努力を無に帰す行為でもあると思う。これまでの積み上げを維持するには、同様に今後も積み上げを続けていかねばならないハズだからだ。英語で授業するという行為が一般化すれば、こういった技術書も日本語では書かれなくなり、そう遠くない未来には絶えるだろう。そうなってからでは遅いのだが、こんな単純な想像一つできない人が教育を行う側にもいるというのがヲイラには理解できない。そんな人が「未来を見据えた研究や教育」を語るなんて、チャンチャラおかしいと思うのよな。

別の観点から考えると、言語は文化の元の一つになっていて、言語を学ぶというコトはその言語を使う文化を学ぶコトでもあるとヲイラは理解しているのだが、それは同時に「あまりにその言語に精通すると、自身の文化的な主体性が揺らぐ」というコトでもある。なので、意思疎通の道具としての言語を学ぶことは重要であると考えるが、それは日本の文化的な主体性がある程度確立してからでないと、色々と問題が発生するのではないかと危惧する。

従って、あまりに早期に英語の勉強を始めるという点についてもヲイラは疑問を持っている。まずは自国語できちんと思考できる基盤をつくってから学ぶ必要があるのではないだろうか。特に最近は高校生、大学生に至ってもその辺りの基盤が揺らいでいると聞く。これ以上問題を大きくする元になるという意味で、英語で授業を行うコトはやはり害悪だと思う。

さらに別の観点で考えてみよう。ヲイラはどっちかと言えば左翼的(多様性重視)な考え方をするのだが、世界的な多様性を維持する上で日本文化ってのはとっても不思議で貴重な存在だと考えている。従って、これをある程度維持していくのは世界全体の多様性を維持する観点からむしろ重要だと考えている。なんでもかんでも「ガラパゴス」と称して切り捨てていくような考え方には与しない。それは単一化を目指すものであり、多様性の対極に位置するからだ。その結果、日本文化(どっかのエセではないぞ)を守るという観点に絞れば割と右翼的(保守的…断じてネトウヨではないぞ)な考え方をしている。

そう考えた時、学問の多くが日本語で語られ、研究され、論文に残されていくというのは、実はとても重要なコトなのではないかと思っている。言語は思考そのものではないが、思考と密接な関係を持っていると理解している。従って、日本語で思考し日本語で記述されるコトそのものが多様性の一つとして重要ではないかと思うのだ。

(閑話休題:そういう意味でも、昨今の学問における選択と集中ってのは馬鹿げている。多様性の維持の上にしか、新しい何かは産まれてこないのだから)

もちろん、他国から参照されるのに英語に翻訳されるコトを否定しているワケではないし、論文が英語で記述されるコトを否定するワケでもない。多言語圏から見れば、日本語で書かれた論文は参照しづらいなどの障壁にもなるだろうし、海外発表ともなれば英語での発表も必要だろうからね。

けどさ、よく考えてみてもらいたい。これまで日本人が海外の論文を翻訳してでも読んでいたのは、それが英語で書かれていたからか?違うよね?そこに読むべき内容があったからではないのか。従って、そこに本当に読むべき内容があるのなら、どんな言語で書かれていても自国語に翻訳してでも読もうとするのではないだろうか。それが研究者というものではないのかね?

この観点からしてみても、日本の国内で必須科目を英語で授業を行うコトというのは馬鹿げているとしか思えない。それは、せっかく持っている多様性の一つを放棄する作業に他ならないからだ。あんな馬鹿げた方針を支持するすべての教育関係者には猛省を促したいと思う。

では、どんな教育が必要なのか…。これも当然のコトではないかと思うが、英語を実践しなければならない場へ放り込むのが一番ではないだろうか。英語必須科目の授業ってのは、ソレを馬鹿げた方法でチープに実現しようとして害悪になってしまっているというだけで、実践的な場を設けてそこへ学生を投入するという考え方自体はそう間違っているとは思わない。

従って、必須ではない科目か何かを英語の環境で行うという取り組みは重要だと思う。すでに日本語で学んだ授業を英語でトレースするとか、国際大会へ選手として放り込むとか、英語でのプレゼンをさせるとか色々な手法が考えられると思う。そういった場でメキメキと英語を鍛えられていくシーンを、ヲイラは何度か目撃している。

以上。

Zak について

基本的にヲタクです。いや、別に萌えとかいうのではなく、ハマるとトコトン進めようとする癖があるので、自制が必要だという…。
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