幌延町営軌道

updated 2004/Oct./06


2002/Aug./14 記録
2004/Apr./08 追記
2004/Oct./06 追記

手持ちの資料によれば、国鉄宗谷本線問寒別駅から二十線方面への路線があったらしいのですが、すでに問寒別の街はかなり変わってしまったようで、街の中には当時のコトを偲ばせるようなものを見つける事ができませんでした。

また、残念ながら、当時の車両についても探しきれませんでしたが、道道を辿るといくつかの跡を発見できたので、それを掲示するコトにします。かつて保存されていた車輌は、簡易軌道歴史館に写真があります。

あと、後半3枚の写真は途中の学校跡にあった遊具ですが、時の流れの寂しさを感じます。

なお、残念ながらこの学校を過ぎてからの跡がうまく発見できませんでした。もしかしたら道を間違えた可能性もありますので、次回以降の課題としたいと思います。

簡易軌道見聞録を入手しましたので突き合わせてみたのですが、どうやら、この学校の跡こそが当時の終着であった20線にあったものではないかという気がします。16線の分岐の少し先にこの学校跡はありましたし。

最初に見つけた橋台。手前の方が片方しか受けてないところを見ると、川の上だけ鋼鉄製のガーター橋桁で、あとはなにか違う構造(例えば土盛り)だったのでしょうか。
手前の橋台の拡大。この構造だと、橋台というよりは橋脚と言うべきかもしれません。ですので、手前側は土盛りではない感じもします。むしろ、木造かなにかの橋がつながっていたのか、それともトラス橋になっていたのかって感じですね。。模型製作には良いモチーフかもしれません。
向こう側の橋台の拡大。こっちはたぶん間違いなく橋台だったように思われます。
次に見つけた橋台。こちらは単に溝のような所を渡していただけのような簡易なものだったようです。
その次に見つけた橋台。なぜかココの橋台は、道路よりも50cm以上高い位置にありました。
非常にわかりにくいですが、上記橋台の反対側。
恐らくは問寒別線でもっとも大きな橋だったであろうと思われる橋台。こんな幅を一発で渡していた橋ですから、当時はさぞかし見ごたえがあったものと思われます。
上記橋台の左側の拡大。
同橋台の右側の拡大。
その先にあった学校跡(現在は生活センターとのこと)の運動場跡の遊具。よく見ると....
実は細いレールで作られています。いくつかの高さの鉄棒であったと思われますが、その足がレールでした。
少しわかりやすいかもしれない拡大。プレートがついたままになっています。


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