そういや、もうこの作品も8年前かぁ…
当時、この作品を見て最後の最後に違和感があった。まぁ、当時のヲイラは「そういう結論もあるんかな」ぐらいであまり気にはしてなかったんやけどね。
それは、主人公のパーシヴァルが最後に見せるシーン…どこかのペントハウスみたいなアップタウンの部屋で、ヒロインとイチャイチャして終わるトコやな。んで、ゲームに定休日を設け、ゲーマーからは批判されたって解説も流れてきた。
今、改めてReady Player Oneを考えてるんやけど、あのラストは昨今のテック右派に対する皮肉なのかもしれんって気がしている。
苦労してゴールしたけど、その結果やったコトは多くのゲーマーの批判を受け、当人は「アップタウンの生活」に移ってしまって無視。素朴な創業者の気持ちは、完全に捨て去られたワケやからな。
苦労してゴールしたコトそのものは否定されるコトではないとは思うけど、その結果が結局は権力者側に立ってしまっていて、市井の市民のコトなんかスッカリ忘れてるって表現のように思えてならん。
公開時の違和感も、今はなるほどって思える。
今はこの物語は、「こうなったらアカンで」という側の物語だったと解釈している。なんぼ頑張って努力したり、色々なアイデアを駆使して「その時の権力者」を出し抜いたりしたとしても、その後自分が同じ権力側に座ってしまうなら、また同じような戦いが発生するコトになるんやろなってコト。
素朴な創業者の思いを大切に引き継げるようには、なかなかできないのかもしれないけどね。特に、枠が大きくなればなるほど難しくなるモンなのかもしれん。
でも、方向性を間違えたら次に追い落とされるのは自分だってコトぐらいは自覚しとかなアカンやろとは思うわな。
ほんま、昨今のテック右派の話を聞いてると、彼らの立場はとっくにIOIになってると思うで。かつてはパーシヴァルだったのかもしれんけど。