科学的であるコトは万能ではないと思う…残念ながら

福島の原発事故以降、さまざまな科学不信が一気に噴出し、色々なトラブルが発生してきたし、今もまだ継続している感じがする。で、それを煽る一端がいわゆる「科学的な人」にあるというのは、コトある毎にTwitter等で述べてきたのだが、せっかくブログもあるので、一度ココにまとめてみるコトにする。

先に書いておくが、ヲイラもたぶん科学の側にいる。その手の仕事をしているし、趣味もそんな関係ばかり。たぶん何も知らない人が見れば、間違いなく理系の人だよね。でも、自然現象を自然現象のままに楽しむ趣味もある。まぁ、機会は少なめだけど。そんな立場のヲイラがコレを書いている。

さて…

現代社会が科学と無縁ではいられないのは天気予報一つ取っても当然のコトなのだが、それを拡大解釈して科学こそが世の中を構成しておりそこから外れるモンは存在しない…存在すべきでない…存在を許されないとまで思い込んでいるボンクラが後を絶たない。学者だと言われてる人でさえも、そういうボンクラが混じっているのだからタチが悪い。

本来、科学って自然現象を捉えてその仕組みを考えるものであって、科学で自然現象が成立しているワケではないハズなのだけど、科学を元にして実行しているから科学的に必ずこうなるという論理の元、世の中の全てがそう動いていると勘違いしているのだろうな。

典型的な例が「これは科学的に正しいのだから○○だ」という論理。それ自体は恐らく一切間違っていないのだろうけど、問題はそれを言う相手とタイミングの事を全く考慮していないというボンクラ。科学的に正しいコトを言ってるのだから、いつ何時どういう場所で言っても問題はないと思い込んでいるんだろうね。

ここでちょっと現状分析なのだけど、これは非常に憂うことではあるのだが、残念ながら(少なくとも日本の)世の中はそんなに科学的ではない。その証拠に未だに「爽やかな汗」を尊び、炎天下でスポーツするコトを良しとし、それが子どもであっても「頑張れば勝てる」などと吹聴して煽り、場合によってはそれが原因で死に至ったりする。

子どもが死んだ当事者はやっとそこで目が覚め責任者を追求しようとするけれど、周囲は全く目が覚めてないので「そんなの自己責任」とか「だって自分から進んでやっていたんだろ」とか平気で唾する。それが天唾であるコトにも気づかずにね。

世の中がこうなっちゃってる一端は、昔からのムラ社会根性が継続しているからってのもあるだろうし、学校教育においてあまりに体育関連が重視されすぎてて、拡大再生産され続けているというのもあるんだろう。授業の数としての体育は割合的に少ないけれど、部活動の極端な体育会系重視(予算とかね)とか、夏休みなのに水泳の日があったりするとか、高校野球の異様な特別扱いなんかもそう…。

で…

そんな世の中相手に、大上段に構えて「科学的に正しいのだから、納得しない奴がバカだ」と言ってみても、そりゃ聞く気はないだろうよ。むしろ「科学的とか言ってるクセに、そんな分析一つできないのかよ」とさえ思う。

ではどうするか…

これはもう、思いっきり地道なコトではあるのだけど、普段からコツコツと理系の人を増やしていくしかないんだろうと思う。様々な理系の活動を支援し、興味を持つ人を支援し、少しでも理系のモノの考え方を納得してもらう活動をしていくしかないんだと思う。ヲイラが様々な大会に顔を出したり、請われれば助言したりしてるのは、まさにこれ。もちろん、楽しいからやっているんだけど、こういう効果は常に意識している。

ここいら辺を分かって下さってる研究者の方も大勢いらっしゃるコトは知っているのだけど、中には研究ばっかりの人もいるようだ。研究者が自分の興味で研究するのは当然のコトであり、そのことを否定する気は全くないけれど、それしかないのであれば、むしろあまり世の中に出てこない方が良い気がする。世の中に出てきたいのであれば、世の中を分析してからにしてもらいたい。でないと、先のような支援活動の邪魔にしかならないのだから。

先の福島の原発事故のようなコトが発生した場合にはどうするか。まずは科学的かどうかは置いておいて、逃げるなりなんなり、初動としては本能的に動くことを念頭にして動くしかないんだろうと思う。そこにいるのは人であって、残念ながら人の心は科学では全く解明できていないのだから、そもそも科学的に動くハズがないんだよね。

で、緊急状態が過ぎたら徐々に戻っていく必要があるワケだけど、そこにおいても「科学的にこうだから」と言うのは二の次にする必要があるだろう。まずは「怖い」という意識を共有しなければ、人はたぶん話を聞く気がない。ましてや、原因がなんであれ今回のように「科学の粋」のような原発が事故を起こしたのであれば、科学自体への不信感が半端ないのは当然のことなのだから。

まずは心に寄り添い、話を聞いてもらえる状態を作ってから、初めて今はどういう状況であるのか、これはどれぐらい許容されているのか、何が分かっていないのか、そのリスクはどれぐらいかを伝え、判断してもらうしかないんだと思う。無論、確率でしか分かっていないコトは、たとえそれが非常に僅かであっても、断定ではなく確率そのものを伝えることが大切だと思う。それも「現段階で判明しているコトとして」である。

そして、その結果判断された結果については、それはその人の考え方なのだから、無下に否定したり見下したりしてはイケナイのだと思う。もちろん「自分はそうは考えない」というコトを表明するのは結構なコトではあるのだけど。

こんなコトを書くと、「そんなチマチマしたことなんかできっこない」と言う人が必ず出てくるモンだけど、ハッキリ言えばそういう考え方自体が今のような科学不信を引き起こしているのだという他ない。というより、むしろ科学から見ればそういう人こそが害悪でしかないんだよね。科学は人とともにあるし、人から排斥されれば続けていけないのは、それこそ歴史が証明しているのだから。

むしろ、これまで先に書いたような地道な活動が足りてないからこそ今のような状況に陥っているのだと考えれば、「まだ現状分析すらできてないのか?それでもアナタは科学的にモノを考えているのか?」とさえ思う。

例えば、こんなドキュメントを無料で公開して下さっている方がいらっしゃるワケで、ただ単に「科学的だから安心しろ」論法を振り回すのはイイカゲンにしたらどうかと思う次第だ。

「やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識」

このように、高飛車なやり方ではなく真摯に語るコトは可能であるし、その必要があると、ヲイラは思っている。

この辺りはかつてのCUI/GUI論争の頃にも散々あったコトなのだけど、あの当時GUIを高飛車にオモチャ扱い/リソースの無駄扱いした連中は、結局世の中のコトが見えていなかったとしか言いようがない。科学が世の中に浸透するかどうかってのは、この辺りをキチンと考えれているか否かで全てが決まると言っても過言ではないという典型的な例だと思う。

当時アップルが出した開発者向けのガイドラインには、非常に哲学的な話が多かったのだが、そこをチャンと分かってる人がいたからこそ出来たコトだったのだろうと思う。そして今や、GUIでない一般向けのデバイスなんて、組込/家電系を除けばホボ存在すらしなくなってしまったワケだし。

そういうワケで、自分が科学の側に立つのだと自覚するのであれば、是非ともその分析能力を「世の中の分析」にも使った上で行動してもらいたい。人の心という非常に不安定で不可解なモンこそが今の世の中を動かしているのは、たぶん間違いのない事実なのだから、それを認めないコトには何も始まらないのだと思う。

以上

Zak について

基本的にヲタクです。いや、別に萌えとかいうのではなく、ハマるとトコトン進めようとする癖があるので、自制が必要だという…。
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