[Essay] キャラクタの存在感に関する一考察

俳優が犯罪を犯すとその出演作までが取り下げられたり、私生活でヤラカしたコトで出演作品までが貶められたりするコトが多々あるワケだが、ちょっと思うトコロがあったので、記しておく。

なお、ヲイラのスタンスは「見たければ見ろ、見たくなければ見るな」なので、それは先に記しておく。不祥事の話を聞いて見たくなくなれば見なければいい。見たい人のため、作品そのものを消すのは論外やが、一方で評価の基準に俳優の私生活があってもソレはソレゾレだと思うので、そう考える人を見下す気もない。

さて、俳優が演じる「役」は、アニメにおけるキャラクタと同じような(同じとしていないトコに注意)モンかと思うので、まずアニメのキャラクタに関して考えてみる。

アニメのキャラクタを構成するのは、「絵柄」「仕草(動き)」「音(声も含む)」だと思う。これらの「部品」を上手に組み合わせるコトで、一つのキャラクタを産み出している。

それぞれの要素は(少なくとも今のトコロ)当然人間が関わっている。誰かの描いた絵、誰かのつけた動き、誰かが当てた声だ。このうち、「普段の生活の中でも見聞きできるもの」はというと、声になるだろう。今のところ、大半の声は(多少変化をつけてはいても)人間が発したそのままの声だからだ。

しかし、この声は実は代替可能だ。そりゃ、長く演じて来た方がいるとそのイメージが強く固まってしまうが、それでもキャラクタの方が長生きなので、キャラクタが世に存在する限り、別の声に変わっていく。そんなキャラクタも既に多数あるよね。

従って、一部特殊な仕掛けをしている作品でもない限り、声を演じている人が何かをヤラカしても、キャラクタの存在自体はそんなには影響を受けないように思う。特殊な仕掛けってのは、サクラ大戦辺りから見られる「声優そのものをキャラクタに仕立てる」手法で、これはキャラクタと声優が不可分になってしまいがちだろう。

一方、人間の俳優が演じる役に関しては、まさにこの不可分が普段から発生しているコトになる。典型的なのが悪役やった俳優のトコに脅迫文が送りつけられるような奴で、見ている方はキャラクタを見ているのか私人としての俳優を見ているのかの境目がかなり曖昧になっているワケだ。

ココがアニメのキャラクタと人間の俳優が演じる役の一番大きな違いだと思う。東京だと有名な俳優が街を歩くコトも頻繁にあると思うが、アニメのキャラクタが街を歩くことはないし、ましてや何らかの不祥事を行うコトもない。そして、当然のコトながら私人としての俳優は役とは別物なので、行動も別物になるのが当たり前なのだが、見ている方はそうは認識しない…というか、たぶんできないのだと思う…。

優秀な俳優になればなるほどその境目を曖昧にできるし、そうした方が「俳優としても」人気が出るのは目に見えているワケで、その手法に絡め取られれば大抵の人は分離できないのだろうね。そして「リアルに存在する役」としての俳優を愛でるようになるワケだ。

一方、アニメのキャラクタを愛する人は、先の特殊例や「声優としての能力」として特定の声優を愛でるコトはあっても、それはアニメキャラへの愛とは別の存在として線引きができているんぢゃないかしら。そして、先の私人としての俳優を分離できない人たちにはそれが理解できず、迫害の対象にしていったのだと思う。現実の世界に存在する俳優がいないと愛でる相手をイメージできない人たちにとっては、現実に存在しないものを愛でるというのは異常に見えて仕方がないのだろう。

で、ココで一つ指摘しておくと、この手の迫害の時によくあった「空想と現実の区別のつかない奴」呼ばわりは、アニメのキャラクタを愛する人に向けるのは完全に間違いだというコトだろう。むしろ、俳優と役を区別できない人に向けるべき言葉だと思う。

「俳優が犯罪を犯したコトに対して作品を貶める人たち」ってのは、まさにこの「区別のつかない奴」の典型だわな。そういう人たちが何をガタガタ言っても、全く説得力を持たないんだわ。むしろ、恥をさらしていると言ってもイイと思う。

冒頭で、「そう考える人を見下す気もない」と書いた。評価基準としてはまさにその通りなのだが、上記のように空想(役)と現実(俳優)の区別がつかないばかりか、その自覚もないという人たちが、きちんと線引きしている人たちへ向けて迫害してくるなら話は別だ。そういう人たちに対しては、徹底的に軽蔑するよ。

ヲイラの思うところはこんな感じ。

Zak について

基本的にヲタクです。いや、別に萌えとかいうのではなく、ハマるとトコトン進めようとする癖があるので、自制が必要だという…。
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