[Essay] 単車というナニカ

普段、ヲイラが単車って存在にどう感じているのかをつれづれと…

バイク、自動二輪車、単車、モーターサイクル、色々な呼ばれ方があるけど、ヲイラ的には単車という言葉が一番シックリくる。どうもこの言葉の語源は、側車付…つまりサイドカーがついた二輪車に対する言葉として出てきたらしい。ってコトは、その前はそんな言い方は無かったんだろうね。レコードがアナログレコードと呼ばれるようになったようなモンか。

現代の50ccクラスを除けば、一応大抵は二人乗りできるようになっているものの、基本的には一人で乗る乗り物なので、そういう意味でも単車という響きが好きなんだな。

同じくエンジンがついている乗り物に乗用車があるが、こっちは余程の例外でもない限り二人以上が乗れるようになっている。まぁ、幸か不幸かヲイラは普段一人でしか乗っていないけれども、この乗用車と単車の間の大きな違いを常々感じるのね。

それは、乗用車がドライバーも含め「乗せてもらっているもの」というイメージなのに対し、単車は「装着しているもの」というイメージの差にあると思っている。この差がどこからくるのか色々考えるんだけど、ヲイラ的な結論は「視界の差」やと思っている。

乗用車の場合、どう足掻いても大抵は「部屋の中から外を見ている」形になる。窓枠は存在するし、車種によっては目の前にボンネットがあったりする。天井がなかったとしても、箱の中から外を見ている感覚から離れられないんだよね。

一方、単車の場合はヘルメットのシールドはあるものの、それはあくまで眼鏡扱いであって、その先に遮るものがない。走行中は単車という存在が意識から消え、自分自身が地面スレスレを走行しているような感覚になっていく。この時、単車ってのは多分義手とか義足のように、身体の一部になっているんやと思う。

なお、この感覚を維持するのが好きな関係で、あまりデカいシールドは好みではないし、いわゆるアメリカンスタイルのような「ハンドルバーが視線に入る構造」も好みではない。また、「機械との一体感形成」の観点から、AT車にも興味はない。MTを無意識に自然に操っていく感覚の先に、単車が消えた感覚が存在すると思っているので。

この一体感を得ることこそが単車を走らせて楽しいと感じる部分であり、それを長く継続したいからこそロングツーリングにも出かける…というのがヲイラの感覚やな。だから、目的地は可能な限り遠方が良いし、できるだけ信号によるストップを避けたい…これが北海道へ通う理由の一つやね。

普段の整備をできるだけ自分でやろうとしているのも、自分の身体の一部を自分で整備しているからと言えば、他の人にも納得してもらえるかもしれん。もちろん、金欠であるコトは否定しないが、たぶんお金が有り余っていても自分で整備してると思う。ま、無理な部分はプロに任せるワケやけどな(笑)。

これも乗用車と比べて大きな違いになる部分で、乗用車の場合、運転に関わる部分のカスタマイズ範囲って案外狭い。それでもなんとか手を入れて、シート,ハンドル、ハンドル軸角度、シフトバー角、ペダルサイズぐらいは弄ったりもしているが、なかなか自分の身体に合わせるコトは難しい。

一方、単車の場合はそれこそハンドルバーの形状だけでも恐ろしい種類があるし、シート形状からステップ位置まで色々と変化させやすい。操作ボタン系さえ変更しやすいし。その分、自分の身体に合った機械になっていく。ちなみに、今所有しているCB1100F、CB125T、APE100は全て同じハンドルスイッチにしてある。操作系を統一してあるので、乗り換えても混乱しない。

こうして、自分の身体の(取り外し可能な)一部として単車というモンが存在している…というのが、ヲイラから見た単車の位置付けやな。3台所有しているのは、その時々の気分で眼鏡を交換するようなものやし。

足腰がヤバくなるまでは、ずっと「装着」して走っていたいものだ…。

Zak について

基本的にヲタクです。いや、別に萌えとかいうのではなく、ハマるとトコトン進めようとする癖があるので、自制が必要だという…。
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