[Essay] 大多数がやっているコトは正義か?

チョイとTwitterでヲイラに粘着的に絡んできた連中(恐らくはお仲間だろうな、あれ)がいたので、一応ヲイラなりのスタンスをまとめておこうかと。

冒頭からアレで申し訳ないんだが、「大多数がそうしているんだから、それが正義」という考え方をファシズムと言うとヲイラは習った気がする。

それは正解の時もあるし、間違いの時もある…というのがヲイラの考え。従って、大多数がしているコトとて議論は必要なのだと、ヲイラは思っている。そして、ココにこそ多数決の限界があるというのがヲイラの思うトコロや。

例えば大昔、道や駅さらには列車の車内でタバコを吸うのは「当たり前」であった。どこにでも灰皿があったし、そのうえポイ捨てもハンパなくて、駅の線路なんて吸い殻で砂利が覆われてるぐらいの勢いだった。灰皿の消しきれてない吸い殻から上がる臭い煙がアチコチで昇り、誰もそれを咎めようとしなかったんだよ。なぜなら「当たり前」だったから。

でも、今はそうではない。問題点が議論され、分離される必要があるとされ、多くは禁煙となっていったよね。これ、最初の頃は当然禁煙を訴えるのは「大多数」ではなかったよな。ほんの少数から声が上がり、時代と共にひっくり返されていった。なんでも多数決なら、今だにモクモクしてるんぢゃないの?

無論、これには逆の面もあって愛煙家にとっては制限が掛かる問題でもある。従って、禁煙ファシズムはそれはそれでキチンと考える必要がある。だからタバコ廃止ではなく、吸う場所を分離する方向へ行くワケだね。これもまた、多数決で決められていたら今頃タバコは発禁処分だったのかもしれないワケだ。

常に少数派に配慮するってのは、そういうコト。多数決は万能でもなんでもないし、大多数がやってるコトが正しいだなんての、単に自分が「寄らば大樹の陰」で思考停止しているだけのこと。それだけに囚われてるのは、ボンクラと言って差し支えないとヲイラは思う。

ましてや、そういった少数からの訴えに対し数のチカラでねじ伏せようとするのは、横暴でしかないよ。自分がこれまでやってきたコトが否定されるのは悲しいかもしれないが、それにどういう意味があってどういう影響があったのかを省みるコトができないなら、それは残念な人と言う他ない。

常に考えておくことの一つは「過ぎたるは及ばざるが如し」って奴。

多数決は一定の方向性を決めるにはいい方法だけど、それだけに完全に絞るコトを決定するには全くもってダメな手法なんよな。ソコを取り違えてる人、結構多い気がする…まさにヲイラに絡んできたような連中とかな。世の中に万能の道具なんて存在しない。多数決もまた、使いどころを間違えれば大変な惨事を招く道具の一つなんだわ。

当然、選挙も同じコトやで。あれも一種の多数決システムの産物やからな。だから「選挙結果に従え、文句を言うな」なんてのはナンセンスでしかない。そんなコトをホザいている奴がいたら、その程度の残念な奴と見做して構わないと思う。

以上

Zak について

基本的にヲタクです。いや、別に萌えとかいうのではなく、ハマるとトコトン進めようとする癖があるので、自制が必要だという…。
カテゴリー: 日常, 書き物 パーマリンク