[Essay] 洗濯に見る自動化の行方

結構昔から、人は様々なモンを自動化してきた。それ自体は本来喜ばしいコトなのだが、時々その方向性を間違って考えている人がいる。

自動化を議論するときに、ある意味定番で使われる言葉としてこんなのがある。

「洗濯機は、洗濯板を自動化したものではない」

そして、概ねその後に繋がるのは「だから既存の○○をそのまま自動化するのではなく、もっと根本的に…」って奴で、要はいわゆる「既存勢力」への否定の言葉として用いられる。「アンタのアタマが古いだけで、時代はもっと先へ行かなければならない」という感じの半ば蔑みを含んだ否定である。10年ぐらい前は、この手の否定がアッチコッチで行われていて、正直な話その釈然としなさにムカムカしてた。

けど、昨今やっとそこに一つの解を見つけた。

ここ最近、なんと洗濯板が売れているのだという。別に自然回帰とかそういったイデオロギー的なお話ではなく、単に「洗濯機では落ちない汚れへの対処」なのだそうだ。もしくは、衣類保護の観点から毎回洗濯機でグルグルやるコトへの否定の観点からでもあったりするらしい。こと洗濯能力においては、未だ水流式洗濯機は洗濯板に勝てないらしい。

念のために先に書いておくが、これは今の水流式洗濯機を否定しているワケではない。あくまでその補助に過ぎない。しかしながら、ここで考えておくべきコトがあって、「今の水流式も万能ではない」というコトはよく認識しておかねばならないコトなのだと思う。

少なくとも省力化の観点において、今の水流式洗濯機のメリットは絶大なものがあるのは間違っていない。しかし、それは「自動化したから」であって「水流式にしたから」ではない…というコトなのだと思う。あくまで水流式洗濯機は、暫定的なものに過ぎない…と認識すべきではないのだろうか。

ここで冒頭の文言に戻ってみると、洗濯板を自動化しなかったのは何故か?という疑問が発生する。無論、その答えは単純で「あまりに技術的に難しすぎ、コストもバカにならないから」だろう。商業ベースに乗らないから、そういうルートが使われなかったに過ぎない。

では現代…は無理かもしれないが、もう少し未来において、それは本当に商業ベースに乗らないのだろうか。未来を見据える観点において、本来欲しい洗濯機とは、本当に水流式なのだろうか。

もう少し別の観点で見てみると、これも洗濯関係の定番問題なのだが、今の洗濯機は「洗濯はするけど、干しも畳みもしない」という問題がある。まぁ、多少干す方は乾燥機能で代用できるかもしれないが、扱える繊維が偏っているので万能ではないし、ましてや畳む方なんて…ね。

こうなってくると、コストの問題以外に関しては、むしろ双腕ロボに洗濯板を持たせ、洗濯物を絞らせ、物干し竿に干し、乾いたら取り込んで畳んでタンスにしまう方が、よほど理想の「洗濯機」なのではないかと思えてくる。

…人はそれを、ヒューマノイドと呼ぶ気がするけどね。

そして、冒頭のような「だからオマエの頭は古い」なんて言ってるような奴の言うことを真に受ける必要はない。むしろ、思考停止しているのはソイツの方なのだから。

以上

Zak について

基本的にヲタクです。いや、別に萌えとかいうのではなく、ハマるとトコトン進めようとする癖があるので、自制が必要だという…。
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