[Essay] 和ってなんだろう

もしかすると、「和を以て貴しと為す」は、案外誤解されてるのかもしれん。

コトあるゴトに、和を以て貴しと為すって意味での「和」を大事にしましょうと言われてる。確かに争いごとは面倒なだけやし、生きるための本筋(快食快眠快便)を行く上でも面倒ごとは少ない方がいい。

ところが、どうも時々これを勘違いしてる人たちがいる気がする。それらの人たちは「和」を「みんな同じ」と考えてるっぽいんやな。みんな同じでみんな良い。だから和なのだ…と。同じなのだから争いごともないとでも考えているんだろうかね。

だけどそれ、実は本末転倒というか、手段と目的を履き違えてるというか、根本的に世界観を取り違えてると思うんだよな。

例えば「調和」って言葉がある。まさにいわゆる和の状態であり、穏やかに存在している状況のコトだろう。だけどさ…全てが同じなら、そもそも「調」する必要はないんだよ。そこに存在する要素が異なるからこそ、お互いに「調」して和をなすのではないのかな?

当然、「調」は同化って意味ではない。それぞれに調整は行うけど、異なる存在であるって前提を残したままや。異なる相手同士が、無駄な争いをせず、お互いに存在していられる状態って、側から見たら結構なデコボコ状態のハズやで。その状態を良しとするのが冒頭の言葉の意味とチャウんかいな。

調和のとれた庭なんてのはその典型で、そこは色々な地面と色々な植物があって、それぞれに存在してるハズや。全部同じってのは、例えば全面砂漠になってるとかそういうのやな。それを調和って言うか?ってハナシ。

なので、和の概念を履き違えた人たちと会話する時は、この辺を充分に叩き込む必要があるやろなと思う。それらの人たちとの和?たぶん無いと思うよ。それは「自由を無くす自由」と言ってるのと同じだから。その世界の中で存在しているのに、世界そのものをひっくり返して良いって権利は誰にも無いと思うからね。

Zak について

基本的にヲタクです。いや、別に萌えとかいうのではなく、ハマるとトコトン進めようとする癖があるので、自制が必要だという…。
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